誰しも一度は「なぜ自分は生きているか」を考えたことがあると思う。そして「なぜこの世界が存在するか」を。
多くの物理学者も同じ疑問を抱いている。しかし彼らが考えていることは「自分が生きる意味はなんだろうか」と言った哲学的なことではなく、「自分たちを存在させるに至った物理法則はどのようなものか?」という疑問だろう。
今回はそんな哲学的な問いについて、物理学という学問はどう考えているのか書いていこうと思う。
目次
物理学者の研究動機
物理学者たちはこの世の基本法則を解き明かそうと日夜研究に勤しんでいる。彼らのモチベーションはおそらく「この世の真理を知りたい」ということに尽きると思う。
彼らの多くはこの世を成り立たせる法則は全て説明可能だと考えている。この世ができたことや私達が存在することは偶然ではなく、何かしらの法則に根付いた要請があったということだ。
例えばよくこの世は3次元だと言われる(時間を足して4次元だとする場合も多いが)。ではなぜこの世は3次元なのだろうか?普通に考えてみればそんなことに理由なんて無い気はする。別にこの世は3次元でも4次元でも、なんなら10次元でも良かったのだ。宇宙が生まれる過程でたまたま3次元になったのではないか?
しかし、多くの物理学者は「この世はたまたま3次元になった」とはおそらく考えていない。「何かしらの縛りがあってこの世は3次元にならざるを得なかった」と考えているはずだ。
それに1つの答えを与えたのが超弦理論である。
超弦理論は相対性理論と量子力学を説明する究極の統一理論として考案された。超弦理論ではこの世の最小要素を弦だとし、その弦の形や振動の仕方の違いが粒子の違いを表すと考える。
この超弦理論において相対性理論と量子力学が矛盾しないよう理論を組み立てるには、この世の次元を10次元に固定する必要がある。今までの理論が与えてこなかったこの世の次元を、超弦理論は一意に定めてくれるというわけだ。
10次元と言われると「そんなのおかしい!」と思われるかもしれない。この10次元は時間1次元+空間9次元だと超弦理論ではみなす。この空間9次元のうち6次元分はコンパクト化されているため、私達の身の回りの空間は3次元に感じられるのだと考えられている。
次元のコンパクト化とは、その名の通り次元が感知できないほど小さくなっていることを言う。例えば2次元の平面を丸めて1本の棒にしたとしよう。この棒は元々2次元だったが、丸めることによってほぼ1次元になってしまった。この棒の上を歩くアリにとってはこの棒は2次元に感じられるだろうが、棒を持つ人間には1次元の棒にしか見えない。
余剰の6次元はコンパクト化されて私達には感知できないため、この世は3次元に見えるというわけだ。超弦理論は、この世が10次元であり、日常が3次元世界に見える理由を一意に定めてくれる。
多くの物理学者はこの世の全てがこのような理論的な制約によって一意に定まるはずだと考えている。例えば光速は秒速30万km/sという定数だが、光速がこのような値になったのは偶然ではないのだ。何かしらの制約の下でこの値を取らざるを得ないと考える方が理論的にも美しいし、真理に感じられる。
だからこそ、その制約を解き明かすために、つまりはこの世界の真理を解き明かすために彼らは日夜研究に勤しんでいる。
人間原理
そのような物理学者の「この世の真理を解き明かす」という態度に反対する立場が人間原理だ。
人間原理は「この世界がこの世界たる理由を説明するには、私達人間が存在するということを考慮しなければならない」と主張する。「私達が存在するのはこの宇宙がそのような宇宙だから」とも言える。
こう聞くと神のような特異な存在が私達人間が誕生するようにこの宇宙を創造したかのように思われるかもしれない。それと同時に「学問に神を持ち出すなんて馬鹿げている」とも。しかし人間原理の主張はむしろ逆のことだ。この世界を神という神秘的な存在なくして語るにはこの人間原理を持ち出さなければならない。
この世界がこの世界たる理由を説明する究極理論に現状最も近いのが超弦理論だ。その超弦理論ではまだ光速が光速たる理由、秒速30万km/sとなる理由を説明できていない。しかし多くの物理学者この理由もいつか説明できる日が来ると信じ研究を続けている。
人間原理はそこに理由があることを否定する。光速が30万km/sとなっているのはたまたまそうなっているからと主張するのだ。捉えようによっては現代の学問を否定するような原理かもしれない。
しかし、このような原理を持ち出すのにも理由がある。この世界には都合の良い値が溢れすぎているのだ。
都合の良い物理定数たち
この世界は都合の良い物理定数で溢れている。例えば万有引力がその代表だろう。もし引力が今よりも少し強かったら、逆に少しでも小さかったら、この世界は全く別の世界になっていたと考えられる。
万有引力は以下の式で表される。
$$F=G\frac{m_{1}m_{2}}{r^{2}}$$
\(G\)は万有引力定数と呼ばれる。万有引力の大きさを決める数と行って差し支えない。万有引力定数の値は大体以下のようになる。
$$G≒6.674×10^{-11}$$
-11乗という値が出てくることから分かるようにこの値はかなり小さいが、結果的に人間が誕生するにはかなりちょうど良い値だった。もしこの万有引力定数が少しでも大きい値だと、太陽のような恒星が輝くための燃料が急速に消費され、星の寿命が短くなる。そうなると地球上で生命が進化し、人類が誕生するための時間がなくなってしまう。
逆に万有引力定数が少しでも小さな値だと、星ができるために物質が集まるのに時間がかかってしまう。そして物質が集まる前に宇宙が膨張することで、宇宙の物質密度が極端に薄くなり、星が生まれることのない、永遠に暗闇のままの宇宙になってしまうだろう。
このような都合の良い値は万有引力定数だけでない。例えば電気素量も都合の良い値と言えるだろう。電気素量は電気量の単位となる物理定数で、陽子1個分の電荷に等しい。電気素量の値は大体以下のようになる。
$$e≒1.602×10^{-19}$$
この電気素量がいかに都合の良い値なのか、説明できる具体例は多くあるのだが、今回は水分子を例にとって説明しようと思う。
水は生命に取って不可欠な存在だ。太古の海で無機物質が生命となったことを考えると、生命の起源は水無しではあり得なかった。また今日の工業が水無しでは存続できないことを考えると、科学の発展も水無くしてはあり得なかった。
そんな水の重要な性質の1つが「液体よりも個体の方が体積は大きい」というものだ。もし水よりも氷の方が体積が大きいため、氷の方が密度が低い。そのため、氷は水に浮く。
もし一般的な物質のように液体よりも個体の密度が高ければ、すなわち氷の密度が水よりも高く水に浮かなければ、氷が深海に沈み、海はほとんどが氷の塊となってしまっただろう。太古の海がそのようになってしまった場合、生命が発生したとは考えにくい。
この「液体よりも個体のほうが体積は大きい」という水の性質は電気素量が都合の良い値を取っているからと言える。水分子は酸素分子に水素分子が2つついた構造をしている。この2つの水素分子の間の角度は104.5°になっており、正四面体の中心角である109.5°に近い値となっている。
そのため氷は正四面体状に水分子が敷き詰められた構造をしている。この正四面体構造は隙間が多く、そのため低温の液体よりも体積が大きくなるというわけだ(実際水は4℃の液体のときに最も密度が大きくなる)。
もし電気素量の値が異なっていたら、水素分子の間の角度が変わってしまい、「液体よりも個体のほうが体積は大きい」という水に特異な性質は失われてしまっていただろう。
このように、例を挙げればきりがないほどこの世の物理定数の値は私達にとって都合の良い値なのである。
わたしたちは都合の良い宇宙にいる
上で触れたように、この世界の物理定数は私達にとってかなり都合の良い値を取っている。この都合の良い値たちがなぜこの値を取るのか、物理学者たちは「その裏には必然性があるはず」と睨んで研究を続けているわけだが、やはりあまりにも都合が良すぎる。理論的な制約があり物理定数の値が一意に定まるのだとしても、それは奇跡にしか思えない。まるで神がこの世界を創造したかのようだ。
だからこそ人間原理は「私達はたまたま都合の良い宇宙にいるだけ」と主張する。しかしこの主張は「多数の宇宙が存在する」ということを前提としている。私達のいる宇宙以外にも多数の宇宙があり、その中に生命が誕生するのに物理定数の都合の良い宇宙があった。だからこそ私達は存在するのだと。つまり人間原理は多元宇宙論を前提とした原理というわけだ。
ここで注釈を加えておくが、多元宇宙論と多世界解釈(いわゆるパラレルワールド)は似て非なるものだ。
多世界解釈は量子力学の解釈の1つで、波動関数は1つに収縮するのではなく、全ての解に対応した世界に分岐するとする解釈だ。分岐した世界はパラレルワールドなどと呼ばれ、SFの主要テーマの1つと言っても良い(シュタインズ・ゲートというゲームなんかが有名だろうか)。
上の説明の通り、多世界解釈は1つの世界が分岐していくもので、パラレルワールド間の物理法則や物理定数は同じだ。それに対し多元宇宙論は宇宙が多数存在し、その宇宙間では物理法則や物理定数は異なると主張する。そして都合の良い宇宙にたまたま生命が誕生したからこそ、我々人類はいるのだと。
多元宇宙論
物理法則の異なる宇宙がいくつも存在する、なんて馬鹿げた話に思えるかもしれない。しかし権威を持った物理学者の中にもこの説を支持する人が多くいる。
他の宇宙の存在を実証することは難しいだろう。物理法則が異なるのである。いつか科学が私達の想像を超えて別宇宙への道を開いたとしても、物理法則の異なる宇宙では存在することすら許されないかもしれない。また他の宇宙には光が存在せず、そもそも観測することすら許されないかもしれない。
それゆえに多元宇宙論はしばしば批判される。検証不可能な仮説であり、検証不可能なのだから反証する証拠を作ることすらできない。科学は仮説を実験と観測で実証してきた学問であり、検証不可能な仮説は科学でもなんでもない。
しかし科学は人々の予測を超えた方向に進むものだ。いつの日かこの多元宇宙論が、そして人間原理が次のステージに進むことを期待している。
最後に
すこし長くなってしまったが人間原理について語ってみた。検証不可能と言われているが、この世界の都合良さを説明するにはもっともらしい仮説である。ちなみに10の1000乗ほどの多元宇宙が存在すれば、私達のいるような都合の良い物理定数を持った宇宙があってもおかしくはないらしい。我々の宇宙に存在する原子の総数が10の80乗個程度らしいので、1000乗ともなれば途方も無い数字だ。
これは戯言だが、これだけの多元宇宙があるのならば、どこかの宇宙に我々の想像通りの宇宙があるのではないだろうか。フィクションの世界でしか描かれない剣と魔法の世界がどこかの宇宙には存在するかもしれない。